夜、声を重ねて
濡れた舗道、交わる視線、触れた瞬間に甦る記憶。かつての上司と部下だったふたりが、言葉より先に熱を重ねる。理性と欲望のあわいで揺れる身体と心――これは、大人の男女が背徳の香りに包まれながら、忘れかけていた“渇き”に火を灯す物語。
その夜、浅倉征司は編集スタジオを出たあと、あえてまっすぐ帰らず、静かな雨の舗道をひとり歩いていた。
午前様になるのも慣れたものだ。撮影は若いスタッフに任せ、自分は編集とナレーション台本の監修にまわる。それが、五十六歳の今の立ち位置だった。
ジャケットの襟を少し正そうとしたとき、不意に後ろから声がした。
「……浅倉さん。変わらないのね、その背中」
雨音にかき消されそうな声だったが、彼はすぐにその主を察した。
振り向けば、黒い傘の下から東條るりが顔をのぞかせていた。
「……東條さん。懐かしいね。元気にしてた?」
「ええ。元気だったわ。でも……あなたのスケジュールを調べたくらいには、元気じゃなかったかも」
彼女は冗談めかして笑ったが、その奥にある真意を征司は感じ取った。
この女は、何かを抱えてここに来た――そう思わせる目をしていた。
「びっくりしたな。……会いに来てくれたの?」
「うん。ちゃんと会いたかったの。ちゃんと、浅倉さんに」
征司は数秒黙り、口元に微笑を浮かべた。
「……だったら、少しだけ付き合ってもらってもいい?」
彼女がうなずくのを見て、ふたりは並んで歩き出した。
*****
麻布の路地裏にある小さなバーは、薄暗く落ち着いた空気をまとっていた。
ふたりはカウンターではなく、奥のテーブル席に並んで腰を下ろした。
「……ここ、覚えてる? 昔、番組打ち上げの帰りに来たことあったよね」
「覚えてる。浅倉さんが『酔ってるようで酔ってない目』してて……ちょっと怖かった」
「……そんなこと、言われたの初めてだよ」
グラスに注がれたワインを、るりは一口、唇に乗せる。
ほんの少し、赤がその口もとに残る。
そして――ふと、目をそらさずに言った。
「ねえ。浅倉さんは、あの頃……私のこと、どう思ってた?」
「どうって……真面目で、よく笑う人だった。仕事は丁寧で、空気も読める。信頼してたよ」
「……そっか。部下としては合格、ってことね」
「……東條さん?」
るりはグラスをくるくると回しながら、口元に笑みを残していた。
「私ね。あの頃、本気で浅倉さんのこと……好きだったの。
仕事終わりに残業してる横顔とか、打ち合わせ中にメモする手元とか。
……全部、目で追ってたの。気づいてた?」
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