オフィス・アフター・アワーズ
深夜のオフィスに取り残された若手社員・美咲と、冷徹と評される上司・橘。静まり返った空間の中、ふたりは互いの本音に少しずつ触れていく。抑え込んできた感情と向き合いながら、ふたりの距離は思いがけず近づいていく――心の隙間を埋めるような大人の恋愛ドラマ。
深夜のオフィスに、パソコンのキーを叩く音が響いていた。
ほとんどの社員が帰ったあとのフロア。
蛍光灯の明かりは半分に落とされ、静まり返った空間に、彼女――三浦 美咲だけが残っていた。
「……もうすぐ終わるから」
誰にともなく呟き、肩をぐるりと回す。
疲れが、骨の奥まで染みこんでいる。
バリバリの総合職。
朝から晩まで働き詰め。
自他ともに認める“社畜”だった。
彼女の上司――橘 玲司は、社内でも恐れられる存在だ。
無駄な情けも、甘えも許さない冷徹な男。
その容赦ない采配に、ついたあだ名は「氷の橘」。
誰もが畏怖し、距離を置く。
だが美咲は、そんな彼の下でもひたすら食らいついてきた。
「――おい」
低く抑えた声が、背後からかけられた。
「っ……」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、噂の本人だった。
鋭い目元、整った口元。
嫌味なくスーツを着こなす無駄のない身体。
その冷たい眼差しは、社内の誰もが本能的に畏れた。
「遅いな。まだやってるのか」
「……はい。あと少しで終わります」
思わず声が小さくなる。
橘の視線は、まるで心の奥を見透かすようだった。
「……そんなに働いて、何が欲しい」
その問いに、美咲は言葉を詰まらせた。
「……別に」
「出世か? 金か?」
橘はデスクに近づき、腕を組んだまま彼女を見下ろす。
「そんなものに、執着するな」
冷たい声。
だがその中に、わずかな熱が滲んでいた。
美咲はペンを握り直した。
だがその手首を、橘が取った。
「なに――」
「見てみろ」
彼は力強くもないが、確かに逃がさない手つきで、美咲の手首を持ち上げた。
「震えてるぞ」
確かに、手が震えていた。
「無理して、何になる?」
「私は……やらなきゃいけないんです。誰にも迷惑をかけたくないから」
言葉は震え、声も小さかった。
だが橘は、手を離さなかった。
「迷惑なんか、かけりゃいいんだよ。誰も、お前に完璧なんか求めちゃいない」
厳しく、冷たく、いつも容赦なかったはずのその男が――
今だけは、まるで違って見えた。
「帰るぞ」
橘の言葉に、美咲は戸惑った。
「でも……」
「いいから」
橘は美咲の手からペンを取り、パソコンの電源を落とした。
「……橘課長」
「玲司でいい」
無造作に告げられた名前。
彼は、デスク脇に立ち、美咲をじっと見つめた。
その視線に、美咲は抗えなかった。
立ち上がり、スーツの裾を整える。
「帰り、送る」
「いえ、自分で帰れます」
「送る」
拒否する隙も与えず、橘は歩き出した。
無言でエレベーターに乗り込む。
静まり返ったビルに、微かなモーター音だけが響く。
エレベーターの扉が閉まる瞬間――
橘が、彼女の手を取った。
驚いて顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。
「少しは、甘えろよ」
低い囁きが、耳元に落ちる。
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
橘の手が、美咲の頬に触れた。
硬い指先。
けれど、その触れ方は驚くほど優しかった。
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