筆の先の罪―キャンバスにほどかれた私―
大学のアトリエで出会った非常勤講師の沙月と若き芸術家・照真。静かに火花を散らすふたりの関係は、絵を媒介にして次第に濃密なものへと変化していく。芸術と欲望、支配と解放――曖昧な境界のなかで揺れる大人の心理を描いた耽美な恋愛ドラマ。
芸術学部の夜間講座が終わる頃、大学の旧アトリエは、いつも静かに息を潜める。
「……また来てくれたんですね」
その声に、沙月は肩をわずかに震わせた。
大学の非常勤講師として、美術理論を教えている白川沙月・35歳。
名ばかりの結婚生活を続けながらも、このアトリエでだけ、自分が“誰かに見られる存在”でいられることに甘えていた。
その視線の主は、芸術学科3年の修士課程にいる若き画家・葛城 照真(かつらぎ・しょうま)、26歳。
「……用事があっただけよ」
「ふうん、でもドアには、僕の名前と“鍵を閉めてある”札。先生しか入れないはずですよね?」
生意気な言葉。だが彼の視線には、尊敬と執着、そして――欲望が入り混じっている。
「あなたの描く女は、どこか全部、私に似てるわ」
沙月がそう言うと、照真は小さく笑った。
「だって、先生が一番、美しいんですから」
その甘い言葉に、肌のどこかが微かに疼いた。
沙月の夫は海外赴任中で、2年ほど別居状態が続いている。
愛情も、情熱も、もはや記憶の彼方だった。
けれど、この男は――
「今日も描いていいですか?」
「また“そういう絵”を描く気?」
「ええ。先生の“堕ちていく顔”を、まだ描ききれていない」
沙月は、テーブルの上にあるティーカップに目をやる。
そこから立ちのぼる花の香りが、どこか陶然とした記憶を呼び起こす。
「これ……また、仕込んである?」
「合法ですよ。精油とハーブだけ。でも、先生が“よく反応する”ってことは、前回で分かってる」
そうして、彼はスカーフを手に取った。
「目隠し、いいですか?」
「……勝手ね、本当に」
だが、沙月の声には怒気がなかった。
むしろ、縛られることで自分の輪郭が際立つ感覚。
人妻でありながら、“見られる悦び”に飲み込まれていく。
椅子に座らされ、スカーフで目隠しをされると、照真の声だけが頼りになる。
「今夜のテーマは“服従と沈黙”。先生は、余計なこと、何も考えなくていいですよ」
耳元に落ちるその声は、筆のように滑らかで、容赦がなかった。
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