筆の先の罪―キャンバスにほどかれた私― (Page 5)
やがて――目隠しが、そっと外された。
布が頬を滑り落ちる瞬間、沙月はまぶたの奥に焼きついた残像と、解放の名のもとに生まれた熱をまだ手放せずにいた。
薄明かりに照らされたアトリエは、昼とはまったく異なる表情を見せていた。
蛍光灯の半分は落とされ、室内には静かな空気と、乾きかけた油絵の匂いが漂っている。
その奥――
ひときわ大きなカンバスが、静かにそこに立っていた。
まるで舞台の幕が下りる直前のような緊張感。
そこに描かれていたのは――目隠しをされ、両手首を後ろで縛られた、裸の“女”。
肌の質感。髪の流れ。首筋のほのかな傾き。
何より、唇のわずかな震えと、頬を赤らめる熱。
顔は、間違いなく――沙月だった。
「……描かれてたの、私」
声に出すことでしか、自分を繋ぎとめていられなかった。
照真は筆を置いたまま、息を吐くように言った。
「描いてたんじゃなくて、“暴いてた”んです。先生の中の、“女”の顔を」
彼の言葉は、まるで肌の内側に触れてくるようだった。
“女”の顔――それは、教師という仮面の下に長年押し込めてきた本当の自分。
誰にも見せず、夫にも忘れられ、ひとりで静かに腐っていくしかなかったはずの情熱。
それが、いま――カンバスの中で、脈打っている。
目の前の“私”は、目隠しをされながらも、確かに世界に開かれていた。
拘束されていたのに、どこまでも自由だった。
沙月の胸が波打つ。心臓が、自分の中で存在を主張するように脈打っていた。
息が、なぜか苦しい。喉が乾いて、唇が微かに震えていた。
服は乱れたまま。
肩は露わにさらけ出され、ブラウスの裾は腰の途中で止まったまま。
髪は汗に濡れて額に張りつき、首筋に沿って絵の具がうっすらと乾きかけている。
でも――それでも。
「……私を、見てくれて、ありがとう」
その言葉は、ただの感謝ではなかった。
見られることに対する悦び、暴かれることで知る自己の熱、そして満たされたという実感。
絵を描くという名の服従と、解放。
カンバスに拘束された自分が、なぜか現実の自分よりも幸福そうに見えた。
あの絵の中の女は、誰にも愛されず、見向きもされなかった“沙月”が、ようやく世界に存在を許された証だった。
芸術は、時に人を縛り、そして解き放つ。
沙月は、もう彼の前で“教師”でいることをやめるしかなかった。
その肩書きは、いまやただの布切れにすぎない。
女として在ることを許された夜
絵と共に、彼女の本当の人生が静かに始まりを告げていた。
Fin.
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