白い海に溺れて (Page 2)

就業時間が終わるベルが、フロアに鳴り響く。

私は最後にメールの受信箱を確認してから、パソコンをゆっくりと閉じ、カバンを手に取った。

課長から紹介されてからは、2週間が経っただろうか。

就業フロアの下の階に足を進めると、いつもの会議室の札の上から、カウンセリング室というカードが臨時でかけられていた。

先週、予約フォームから申し込んでみたのだ。

カウンセリングというと、鬱病の診断を下されて薬の処方をされるイメージが強く、最初は気乗りがしなかった。

しかし、彼のウェブサイトを読み込むと、そこには薬を使わないさまざまな手法が紹介されており、何となく興味を抱いたのだ。

息をゆっくり吸い、スカートについた埃(ほこり)を一度だけはらい、ドアをノックする。

「お名前を」

優しく、少し鼻にかかった大人びた声がドアの向こうから聞こえた。

「大田由美です」

「18時から予約の大田さんですね。そのまま入り、ドアに施錠をお願いします」

ドアを開けると、いつもの会議室がパーテーションで仕切られ、蛍光灯の灯りも間引かれていて、薄暗かった。

奥の椅子がくるりと回転し、白衣の姿の男性が立ちあがる。

「大田さん、初めまして。産業カウンセラーの古屋隼人です。どうぞ、そこの椅子に座ってください。あ、カバンはそこのカゴに」

年齢は30代後半だろうか。

私より少し年上に見える彼は、少し長めの髪をワックスで無造作に流していて、顎ひげがあるのに銀のフレームの眼鏡で不思議と清潔感のある印象だ。

私は言われた通りにバッグをカゴに入れ、まるで歯医者の診察台のような、足を伸ばす形の椅子に恐る恐る腰をかける。

「大田さんは、こういったカウンセリングは初めてですか?」

古屋先生は、私の診察台から少し離れたところの椅子に腰掛け、カルテのようなものを開き、何かを書き込み始める。

「いえ、以前心療内科に通ったことがあって、そこでもカウンセリングのようなことはしました。」

「そうでしたか。心療内科と私の行う施術は全く違うアプローチなので、もしかしたら驚かれるかもしれませんが…」

先生はそういうと、近くの棚の上のキャンドルに、火をつけた。

燃え上がる揺らめく炎と共に、深い緑のような香りが徐々に香る。

私の横に立ち、椅子の後ろから薄い不織布を取り出し手に持った。

「まずはあなたの悩みを聞きましょう。顔にこの布をかけますので、ゆっくりと目を閉じて。椅子も倒していくので、体が椅子に沈んでいくようなイメージで、ゆっくりと預けてみてください」

優しい声、抑揚でそう言うと、私の顔にゆっくりと布をかけた。

私が言われた通りに目をつむると、椅子が機械的な音を立ててゆっくりと倒されていく。

家族構成や会社での仕事内容、普段の生活習慣などのひと通りの基本情報を聞かれた後に、段々と私の悩みの話へと移行していく。

「ほぼ眠れてないということですが、一言でまとめるとすると、その原因は何だとご自身ではお考えですか?」

「…夫、です」

私は、ぽつりぽつりと言葉を絞り出しては、ありのままを伝えた。

夫が半年ほど前から携帯電話を肌身離さず所持するようになり、ロック認証画面の数字も変えたこと。

自分よりも随分と若い女性と腕を組んで歩いている後ろ姿を目撃したこと。

週に何度も酒に酔った状態や、女性の香水の香りをつけたまま遅くに帰宅すること。

一度、話し合いを試みて指摘をしたものの、逆ギレされ、それ以降肉体的な接触がなくなったということ。

それからは、見て見ぬふりをしているということ。

先生は私の話を聞きながら、所々相づちを打ち、カルテにメモをとる。

紙と黒鉛の擦れる音が、静かに部屋に響いた。

「大田さんの悩み、よくわかりました。私の見解では、大田さんには催眠療法が適切かと思います」

「催眠療法、ですか…」

「言葉はうさん臭いと思いますが、大田さんのように、自分の本当の気持ちや欲求を抑圧してしまっている人には有効な手段なんです」

そう言うと、先生は私の顔にかかっている不織布をゆっくりとめくり、椅子を起こした。

「僕は、カウンセリングはあくまでもその人の背中を押す、補助の役割だと思っています。解決するための行動を起こすのは、ご本人です。大田さんは今、長い事悩まれる中で思考が固まり、自分がどうしたいのかわからなくなっている状態です」

先生は、近くのホワイトボードに、話しながら催眠療法のプロセスを図式化していく。

「今日は、大田さんの現状の悩みを知りました。次回の診察で、大田さんの思考のコリを催眠療法でほぐします」

先生はひとしきりの説明をして私に質問などがないかと確認した上で、次回の診察日はウェブ上から1週間以内に、と言い、その日は終了となった。

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