溶け合うのは、キャンバスの外で (Page 5)
「本田さん!お電話です。木下先生から記事の件でって。内線3番です」
木下先生、という名前を聞いた瞬間に、手先にビリビリとした感覚が走るのがわかる。
「今出る!」
わたしは1度深呼吸をしてから、受話器に手をかけた。
「お待たせしました、本田です」
「あぁ…木下だけれど。君にお願いがあってね。名刺には会社の番号しか書いてなかったから、ここにかけてしまったよ」
「いえ!大丈夫です。お願いというのは…?」
「明日から個展が開催されるというのは知っているよね?今日の夜8時に、個展のギャラリーに来てほしい」
「8時ですね。大丈夫です!何かあったのですか?もし取材のご希望とかでしたら、カメラを持って…」
わたしが最後の言葉を発する前に、先生は用件だけ伝えて電話を切ったようだ。機械音だけが耳に残る。
受話器を戻さないまま、わたしは数回息を吸って、吐いてを繰り返して胸を押さえた。
先生にお願い事をされたという事実だけが、心臓の鼓動を早くさせた。
*****
約束の時間を少し過ぎてしまい、足早でギャラリーに向かう。
あたりはすっかり暗くなり、外灯の明かりには虫が魅せられていた。
「木下先生…?本田です!遅くなりすみません!」
ギャラリーの中に入ると、奥の方の展示室から明かりが漏れていた。自分の声がギャラリーの高い天井に響く。
奥から先生が、こっちだ、と呼ぶ声が返って来た。
わたしは視界が悪い中、外灯に魅せられた虫のように、ふらふらと奥の展示室のほうへ足を運んだ。
「あぁ、悪いね。こんな時間にわざわざ来てもらって」
「いえ、先生ご用というのはなんでし…」
先生は、大きな絵の前に、立っていた。
その絵を見て、わたしは思わず持っていた鞄を落とし、途中で言葉を詰まらせた。
そこには、女性が描かれていた。
長い髪に、白く透き透るような肌。胸の膨らみは大きくはなく、脚が細く長い。
涙を浮かべ、悲しみとも喜びとも捉えられるような表情をし、体は官能的に反っている。
「僕は、現実しか描けないんだ」
彼の、深い黒色の目が、わたしの視線を捉えた。
自分の中で押し殺そうとしていた感情が、湧き上がる。この感情に名前をつけるとしたら、なんとつけるのだろうか、決壊してしまいそうだ。
「これは、君の現実の姿だよ」
彼はそう言って、目を細め、わたしの手をすくいあげ、キスを落とした。
「おいで」
いつもの声色の合図が、誰もいないギャラリーに、静かに響いた。
Fin.
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