溶け合うのは、キャンバスの外で
出版社に勤める本田彩子は、いつも心に虚無感を抱えていた。そんな彼女が取材をしているのは、彩子が心底惚れ込んだ絵を描く木下という画家だった。彼女よりひと回り違う年齢の彼は、とても感情表現が不器用だが、彩子はそんな彼に取材をする度抱かれて情事にハマっていくのだった。
いつもこの廊下は、ヒールの音がやけに大きく響く。
足早にエレベーターを降りると、私はひとつ、大きく深呼吸をしてインターホンのベルを押した。
ジリリリリリリ…という機械音の奥から、気怠そうに掠れた声が聞こえる。
「…はい」
「あ…木下先生、私です。本田彩子です。約束のお時間になったのでお伺いしました」
その後の返事はないが、いつものようにドアノブからオートロックが解除される音が聞こえて、迷わずドアノブに手をかけた。
室内の窓が開いていたようで、ドアを開けるとフワッと通り抜けた風が髪を揺らす。
いつもの、油と有機溶剤の重い香りが鼻腔をくすぐった。
コンクリートの壁に、おしゃれなアイアンのテーブル、洗練されたスチール家具…、この男は本当にすべてに無駄がないのだろう。
「少し待っていて。僕はシャワーを浴びてくるから。あ、紅茶はあそこだから」
気怠そうに、白髪混じりのボサボサの頭を掻きながら、彼はグレーのジャージにベッタリとついた油絵具を指で擦っていた。
一回りも歳が違うというのに、髪の合間から見える肌は艶があり、少し生えた無精髭が大人の色気を感じさせる。
言われた通り、わたしは彼が顎でさした先の指定の場所から紅茶のパックを2つ取り出すと、電気式のポットのスイッチを入れた。
今日の取材内容にもう一度軽く目を通しておこう。
――バインダーに挟んだ書類に一通り目を通し終えた頃には、グツグツとお湯が沸いた頃合いだった。
カップにお湯を注ぐと、高級感のある茶葉の香りが立ち込めて思わず頬が緩む。
「すまないね、いつもやってもらってしまって」
先生は少し濡れた髪のまま、白いシャツに細身のジーンズ姿で、カップをそのまま二つ受け取りテーブルに置いた。
「いえ、先生もお忙しいと思うので、今日は手短にまとめられればと思います」
アイアンのテーブルを挟んで向かい合う形で、わたしは先ほど目を通したバインダーの書類をめくる。
「煙草吸いながらでいいよね?」
「はい!」
彼は一重の吸い込まれるような深く黒い目で、わたしに視線を送ると、ジッポで火を点けた。
「では先生、まず今回の作品についてですが、今までは風景が多かった中、今回のモチーフは女性と聞いておりますが、そうなのでしょうか?」
「そうだね…。僕はアートの道にいるけれど、実は妄想とか、幻想とかそういったものが得意ではなくてね。現実しか描けないんだ。
風景は、見たものそのままに少しのエッセンスを加えればできあがるんだけど。
女性は、現実ではない部分が多すぎるから、僕も苦戦しているところでね」
「現実、ですか…。でも、苦悩されながらも、いよいよ来月から個展が始まりますね」
「そうだね。本当に、何度も取材をして特集にしてもらえるということで…。おかげさまで人がたくさん来てくれそうだよ」
「そうですね!でも、先生への取材も後数回しかないので、色々踏み込んだ質問もぜひさせてください。前回の作品テーマは…」
わたしは、用意した踏み込んだ質問を先生の顔色を伺いながらも問いかけた。
先生は、少し黙り込みながらも、ゆっくりと確実に言葉を紡いで答えてくれる。
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