白い海に溺れて

・作

半年前から夫の浮気に気づき、夫と話し合いをするも向き合うことに疲れた会社員の由美は、悩みから不眠症を患っていた。上司の勧めで、会社の中に新設された産業カウンセラーに行くことになるが、先生は男性だった。催眠療法で抑圧している欲情の蓋を取り払われた由美は…

バタン…

静まり返った部屋に、無造作にドアを閉める音と、不安定な足音が聞こえる。

彼が、酒と甘い女性ものの香水の匂いを放って帰ってくるようになったのは、ちょうど半年くらい前から。

今日も私は、気づかないふりをして布団の中でまぶたを閉じた。

明日、朝起きたらこの記憶は消えて、また新しい私に生まれ変わるのだ。

そう自分に言い聞かせながら、静かに布団を握りしめた。

「…大田さん、ちょっと、会議室に来てもらえる?」

この会社で数少ない女性マネージャーとしてバリバリ働く私の憧れの上司が、すぐ近くの会議室から、私を手招きする。

私はキーボードを打つ手を止め、手帳とペンを片手に会議室に入り、席についた。

「大田ちゃんに、ちょっと話したいことがあってさ」

課長は、手元のマグカップに入ったコーヒーに口をつけた。

「単刀直入に言うけどさ。最近、もう今にも倒れそうっていうくらい顔色が悪いよ?大田ちゃん。眠れてないんじゃない?」

「え?なぜそれを…」

私は、課長の発言に驚き、思わず自分の唇を触る。

「勤務時間中もしんどそうだし、先週は貧血気味で医務室にも行ってたじゃない?」

課長の心配するような視線に耐えきれず、私は目線を逸らした。

「不眠症気味で…。市販の睡眠導入剤は飲んでいるのですが…」

「仕事で悩んでいるわけではない?旦那さんとかにも、話せてる?」

旦那。その単語が出た途端、昨晩の酒と香水の香りが思い出されて、急に口の中に苦味が広がる。

仕事とかでは…。とだけ、ポツリと言葉を紡ぐ。その後に、何と説明したらいいのだろうか。

そもそも、自分はなぜ彼にこんなにも我慢をしているのだろうか。

気づかぬうちに思考を巡らせてしまったのか、沈黙が続く。

その様子を見て、課長が手帳から一枚の名刺を取り出して、私の目の前に差し出した。

「産業カウンセラーって知ってる?メンタルケアを専門にしている方が、いろいろな企業の専属のカウンセリングをするのだけど、来週からそのカウンセラーがこの会社のカウンセラーとして、来るそうなのよ」

名刺に書かれた古屋隼人という名前の上には、産業カウンセラー、の肩書きが羅列されていた。

「男性なんだけど、色々な悩みを幅広く解決するプロみたいだから、予約してみたら?」

課長はそう言うと立ち上がり、私の肩をポンと叩いてから優しく微笑んだ。

「少しでも眠れるようにね」

バタン…と会議室のドアが閉まり、課長のヒールの音が遠ざかっていく。

私は1人残された会議室で、ぼんやりと名刺の名前を眺めていた。

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