拝啓 愛しの痴漢様 (Page 3)
いつの間にか葛西さんは、鞄からハンカチを取り出していた。
ショーツに少し残っていた精液を拭いている。
ずれた下着を直され、捲り上げられたスカートも元に戻される。
足元で何かが動いているのがわかる。葛西さんがハンカチを足で使い、床を拭いてるんだ。
済んだらしく、動きが止まる。ハンカチは降りるときに蹴り出していくはずだ。
いつものことだから、とっくに覚えてしまった。
後で拾うのか、電車とホームのすき間から下に落とすのかは知らないけど。
それは知らない。けれど、知っていることは沢山ある。
あなたは葛西さん。葛西慎二さん。それなりに名の知れた中小企業の課長さん。
四十歳。既婚。奥さんは元同僚。三十五歳。今は午前だけのパート。
子どもは息子さんがひとり。六歳。学校は公立。優しいけど大人しい子。
もちろん、奥さんや息子さんの名前も知っている。
そう考え、こみ上げそうになる笑いを抑える。
知っているのよ? 調べたんだもの。
体のすぐそばのドアが開いた。葛西さんの体が離れ、降りていく人たちに加わる。
私の横を通り過ぎるとき。
「またね」と、囁いた。一瞬、私を見た葛西さんの顔がこわばる。
けれど何もいわず、そのまま人波に流されていった。
たった一駅の乗車。それは私に会うため。そして逃げるため。次の電車に乗り換えるんでしょ?
*****
乗客が降り、また新たな乗客が車内を満たす。プラマイゼロで、車内の密度はほとんど変わらない。
ドアが閉まる。通り過ぎてゆくホーム。その中に葛西さんを見つけ、目で追う。
八時七分。加速し始めた電車はホームを置き去りにし、あなたの姿はもう見えない。
私は壁に体を預け、初めて葛西さんと会った日のことを思い出していた。
もう一年以上前。大学の入学式当日、初めてこの時間の電車に乗った。
地方から上京したての私が、初めて経験した都市部のラッシュ・アワー。
人ごみに押しつぶされそうな私を、壁になって助けてくれた人。
葛西さん。それがあなた。初めてあなたに触れられて。
私はあのとき、あなたに恋をした。
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