向かいますんで、お待ちください
営業職の百合子は、酔いつぶれてしまった親友の麻奈の介抱中、困惑していた。そこへ、麻奈の兄から麻奈の電話に着信が。「百合子」と呼ぶ兄の声は、心地よい頼もしい声だった。彼女は、かすかに淫らな予感を感じてしまいー。
「ねぇ、起きて。麻奈」
虚しくも、百合子の声は友の見る夢には届かない。いつもの麻奈なら、鼻をつまむと、むぅーんと甘えた声で唸りつつ、ムックリと起きる。
でも今日は、酒豪の彼女もお酒の力には勝てなかった様子だ。連日タクシー退勤という、繁忙を極めた週の金曜日。
「百合子さまぁー。三週間ぶりに、やっと呑めるから付き合って!」という親友の誘い。
癒してやるか、という姿勢を保ちつつも、穏やかでのびやかな彼女との時間が、百合子のかけがえのない宿り木である。麻奈はビール、百合子はワインと畑は異なるが酒造メーカーの営業職同士。
麻奈の身体を休めるのが優先では、と一瞬よぎった。それを見過ごしたのは間違いだった。百合子は、親友に飲ませたいワインを取り扱う店を、心躍らせて予約してしまった。麻奈が明るいサービス精神で、豊富な話題に花咲かせながら、次々と酒を流し込む傍らで。百合子がチェイサーを店員にオーダーしようと右手を上げた。その百合子の右腕に麻奈の頭が倒れてきた。時すでに遅し。
バーカウンターに突っ伏す麻奈の様子に困惑し、百合子がすみませんと店員に目で謝罪を送ると、優しい店員の笑みが返ってきた。
「眠っているお友達、ご自宅はお近くなんですか?」
いえ。わりと遠くまで、私のわがままで連れてきてしまいました。大事な間柄の会食は、美味しいお酒と食事じゃないと、と。
さて、どうしよう。百合子の気持ち通り警報が鳴り響く。いや、脳内の警報ではなく実際、麻奈の電話が鳴り響いている。パチッ、と麻奈が起きた。泥酔しているとは思えぬ勢いで、鞄の中から電話を取り出し、店外へ出て行こうとする。が、足元がふらついて、動けないのだ。
「あ、やだ。企画一件終わったばっかりだった。仕事の電話が掛かってくる訳ないわ」
と自嘲気味に笑い、着信を見て、さらに笑いを増す。
「百合子ーお店の外まで歩けないから、ごめん、電話に出てー」
出てー、と言われても。
「えっ、誰からなの?」
「おにいからー」
「おにい?え?麻奈のお兄さん?いきなり私が話して大丈夫なの?」
「だいじょぶ、だいじょぶ、いつも百合子の話してるから。助かるー」
だいじょぶ、と言いつつ麻奈は、両腕で×(バツ)マークを作る。そしてまた、椅子に落ち着いて眠りこんでしまう。
慌てて店外へ出て、耳に電話を当てる。
「麻奈?どうした?」
低く、落ち着いた男の声が、百合子を落ち着かせる。
「ごめんなさい、私、麻奈ではないんです。麻奈が酔い潰れてしまって。私、友人の―」
「百合子?」
名乗る前に、名を呼ばれる。心地のよい甘さを含む声に。麻奈を心配している落ち着かなさとは、違う。かすかに淫らなざわつきが、自分を薄く包むのを、百合子は自覚する。
「あ、百合子…さん?俺の自宅から近い店に百合子さんが連れてってくれるから、心置きなく呑む!迎えに来いって。麻奈から連絡を受けて。車を出すから飲まずにいたんですけど。ご迷惑をお掛けしているなら、迎えに行っていいですか?申し訳ない。俺もそろそろ、家で呑みたいんで」
甘い笑いが差し挟まれる。
「そういうお約束だったんですね。安心しました。麻奈、甘えっ子ですね」
「だらしないように見えるかもしれないですけど。百合子さんに心を許しているからだと思うんで、もう少し辛抱して相手してやっていてください。安全運転で向かいますんで。お待ちください」
温かみのある声。百合子、と脳内で再生する。声だけ、声だけ。会って、麻奈を引き渡して、帰ろう。
麻奈の兄に店名を告げたところで、もう、ナビに入れてあります、と笑いで止められる。笑い上戸な兄妹だ。
安堵で足取りも軽く店内に戻り、会計を済ませようとすると、店員に、お会計済みですよ、と笑って制される。店員の目線の先には、麻奈。
「迷惑かけてるから、今日は私にご馳走させてぇ。もっと寝ておけばよかっ、た。ごめんねぇ…」
「そんなのいいよ。払うよ。疲れてるのに、無理させてごめん。お兄さん迎えに来てくれるって」
安心して、と麻奈の頭に掌を乗せる。
そんな時にも脳内に。
「百合子」
と「おにい」の声が満ちる。
どんな人なんだろうー。
舌舐めずりしてしまった。
「女の両脚をМの字に開き、たくましい両腕で女の太腿に圧をかける。」を何度も読み返した。
導入から核心への展開が早くて滑らかで、まるでビロードのような肌触り、を感じる官能小説。
J さん 2020年9月17日