不倫相手と別れた夜に出会った、優しい青年。名も知らぬ人との心癒やされる一夜。
三年間の不倫関係にけりをつけた夜、偶然立ち寄った店で私を迎えてくれたのは、一杯のホットトディと、優しい笑みの青年。一夜だけの偶然の出会い。互いの本名も知らないまま、彼はただ私の話を静かに聞いてくれ、そしていつか私たちは……。
三年間、付き合っていた人と別れた。
その人は既婚者だった。
別れたくないとすがりつくその人を振り払い、私は夜の街へ出ていった。
家路を急ぐ人たちの間をすり抜け、あてもなく歩き続ける。
家には帰りたくなかった。
ただひたすら歩き続け、やがて足の痛みでこれ以上歩けそうにないと思った時。
ふと、小さなお店の看板が目に入った。
「いらっしゃいませ」
初老のマスターが穏やかに出迎えてくれた。
ほの暗い店内に、かすかに煙草の匂いが漂う。
お客は私のほかに、ボックス席に座った数人のグループ客と、カウンターに若い男性がひとり。
若い男性というより、少年と言ったほうが似合いそうなくらいだ。
「何になさいますか?」
「あ、えっと……」
「お姉さん、寒そうだね。あったまるものがいいんじゃない?」
カウンターの男性客が話しかけてきた。
明るくて若々しくて、耳元をそっとくすぐってくるような優しい声だった。
「ぼくのおすすめは、ホットトディかな」
「ホットトディ?」
「ウィスキーのお湯割りに、はちみつやレモンで風味をつけるの。生姜とか入れてもおいしいよ」
「……じゃあ、それを」
「マスター。それ、ぼくからね」
「えっ?いいわ、そんな――」
「いいから、奢らせて」
普段なら、見知らぬ相手から奢ってもらうなんてありえない。
けれど今は、誰かの優しさを拒否することができなかった。
差し出されたグラスを受け取ると、カクテルのあたたかさが両手にじんわりと伝わってきた。
「お姉さんの名前、聞いてもいい?」
「えっ……」
優しい言葉は嬉しいけれど、名前までは――。
私が返事に迷っていると。
「じゃあ、ぼくが名前、つけてもいい?今夜だけの、お姉さんの呼び名。そうだなあ、撫子さん、なんてどう?」
「撫子……」
今夜だけ、ここだけのニックネームみたいなものだろうか。
それなら、いい。
「お姉さんも、ぼくになにか名前つけてよ」
「えっ?じ、じゃあ、一郎くん」
「一郎!いいね!」
彼は子供みたいにはしゃいだ。
「マスター。今日はぼく、一郎だから!」
「かしこまりました」
それから私たちは、グラスを傾けながら、長い間、話し込んだ。
と言っても、喋っていたのは主に私。
彼は優しい笑みを浮かべながら、私の話を聞いてくれていた。
気が付けば私は、別れたばかりのあの人のことを、何もかも彼に話していた。
「妻とはもう他人だ、お互い離婚を考えている――なんて、不倫する男の常套句よね。そんなの信じて、三年間もずるずると……。ほんと、馬鹿みたいよね」
話していると、目頭がじわっと熱くなってくる。
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