伊倉課長は可愛くない
安達茉奈の上司、伊倉庄司は愛想を知らないような男だ。誰かにおもねることもなく、皆に公平に冷たい。そんな伊倉のあだ名は氷の伊倉。だが茉奈は知っている。そんな風に評される伊倉のもう一つの顔を。残業後の職場、伊倉とふたりきりになった茉奈は---。
作成した資料を添付して送ったメールへの返信。
「誤字あり。以下~。グラフに見にくいところがあり。以下~」
の箇条書き。
茉奈ははーっとため息をついた。
やり直しのぶっきらぼうな指図。
伊倉課長はいつもそうだ。
ねぎらいの言葉一つもない。
課長の難点はそれだけではない。
一度たまたま自分が欲しかったのと、ちょっとしたおせっかいで伊倉課長へお茶を出したことがある。
「僕がお茶の一つも淹れられないと思っているのかね。前時代的な」
給湯室でふたりになったときにたしなめられて、茉奈は平身低頭したものだ。
頭が固い。
プライドが高い。
決して甘い言葉など部下には吐かない。
その部下たちに氷の伊倉とあだ名されていることを知ったらどう思うだろう。
きっとどうも思わない。
そう思ってくれたほうが気分が楽だ。
それくらいだろう。
茉奈は斜め前のデスクで仕事をこなす伊倉課長をちらりと見る。
さっきから何本の電話をさばいて、いくつの書類を作成し幾人の部下に指示を出したことか。
出来る男だ。
だからだれもなにも文句は言わないし、せいぜい冷たい男だと苦笑いするくらい。
でも茉奈は知っている。
それが伊倉の一面に過ぎないことを。
*****
残業で居残る職場の空気はそれまで働いていた人たちの労苦で、なにか空気がよどんでいて、茉奈はモニターを見つめる眼がかすむのを感じた。
「安達君」
「はい!」
いきなり名字を呼ばれて茉奈は素っ頓狂な声を上げる。
おおよそいつも最後まで職場にいてロックをかける伊倉課長が、茉奈のそばに立っていた。
「直しを依頼した書類は今日までとは言っていなかったが。他にも何か仕事があるのかね」
「あ、いえ、もう終わります。伊倉課長」
「それならいい」
「庄司さん」
茉奈は伊倉の下の名前を呼んだ。
伊倉はぎょっとした表情を浮かべた。
「なんだね。急に」
「もう仕事もお互い終わりですし、もうひとつの関係になってもいいのでは?」
それは恋人という関係。
職場では秘密にしているふたりの関係。
茉奈は椅子から立ち上がり伊倉を睨み上げる。
「言わせてもらいます。いい加減「ついでに淹れたコーヒー」くらい飲んでくれてもいいでしょう!なんでそんなところで意固地なんですか」
茉奈は今日あった衝突について伊倉をせっつく。
「前にも言っただろう。僕は自分が飲むものは自分で淹れる。他人に、しかも女性にそれをやらせるのは前時代的だと」
「私の淹れたコーヒーはどうしても飲めないってことですか」
「ああ飲めないね!淹れたのが安達茉奈、君の場合特に飲めない」
「あなたの恋人の安達茉奈だからですか!」
「そうだよ!」
丁々発止やりあって、茉奈は急におかしみがあふれてくる。
「もうやだ、庄司さんたら、頭かたい、かたすぎる」
「職場では特別扱いしたくない。プライベートでは対等でありたい」
「そりゃあ私もそうでありたいですけど、もう少し愛嬌のようなものがあってもいいんじゃないですか」
「ああもう、黙りなさい」
伊倉は茉奈のあごをしゃくり上げると、いきなりキスをした。
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